戦闘機の登場と航空産業の発展(6) "第二次世界大戦最初の分岐点"


こんにちは。今回は前回のバトル・オブ・ブリテンの続きについて書いていこうと思います。

バトル・オブ・ブリテンで、イギリス空軍は大ドイツ空軍によって、レーダーや戦闘機、工場などの軍事目標を徹底的に爆撃され、もう後がありませんでした。しかし、ドイツの夜間爆撃に向かった爆撃機が天候の悪化で目標航路から大幅にそれてしまいました。天候は回復するどころかさらに悪化したため、危険を感じた爆撃機のパイロットが爆弾を投棄しました。この直後ロンドンで爆発が起こり、チャーチルは後日報復としてベルリン爆撃命令を出しました。

当初、ロンドンへの爆撃は、戦争が泥沼化してしまう原因となるので、制空権を奪取しても降服しない場合の最後の手段でした。ですから爆弾を投棄するのはもちろん、ロンドンへの爆撃は言語道断でした。爆撃機の機長と副操縦士(爆撃機の責任者)は、上層部に無責任だと批評され、始末をつけるためにベルリンへ出頭しました。

ベルリンの被害は軽微にとどまりました。しかし、ベルリン上空の安全を保証していたアドルフ・ヒトラー、及びヘルマン・ゲーリングらはこれを知り憤慨しました。アドルフ・ヒトラーは本来の作戦を怒り任せに大幅に変更しました。ロンドンを徹底的に爆撃し、総力戦で結束されているイギリス国民の戦意を喪失させようとしました。これが第一次世界大戦以来の無差別爆撃の引き金になり、皮肉なことに、戦局の悪化を打開する機会をイギリスに与える結果をまねきました。

ロンドンでは爆撃により人的被害が甚大になりましたが、それと引き換えに、工場や、レーダー、空軍基地施設の爆撃を免れ、3日もあれば完全に修理完了し、生産可能な状態にまで復活しました。さらに、当時大ドイツ空軍の最強の護衛単座戦闘機、Bf109E-3は航続距離が短く、イギリス側のドーヴァー海峡上空であれば戦闘時間は15分までで(これは後の太平洋戦争での戦闘時間と基本的にほとんど変わりません。)、ロンドン上空でのエスコートでは、戦闘時間は5分までしか飛ぶことができません。ロンドン空襲の逆光を逆手にとった戦術にかけることになったのです。

さらに、かつては少人数で身を潜めて奇襲をかける、ゲリラ戦術を空で実践していました(リトルウィング作戦)。しかし、この戦法の欠点は、一度で相手に与える被害が比較的少なく、軍事施設の爆撃を受けていました。よって自国の戦力と相手の戦力を考慮して割合うと、イギリス側の戦果以上にそのパイロットや航空戦力の被害が目立つ一方でした。

そこで、大編隊を組んで(いわゆるビッグウィング作戦)まさに空のアルマダ(無敵艦隊)と呼ぶにふさわしい大ドイツ空軍を迎え撃つことができれば、人員や戦力の消耗の種となっていた爆撃機隊に甚大な被害を与えることができると考えました。

ビッグウィング作戦は、このロンドン空襲が起きてしまったからこそ有効な手段だったと思います。現に、編隊を組むのに時間がかかって敵が逃げたら戦果ゼロで軍事施設の被害が甚大になり兼ねませんでした。また、仮に戦闘できたとしても、攻撃側のドイツは幼い頃からグライダー飛行を含めて3年以上の飛行経験を持ち、実戦を経験しているベテラン、エースパイロットが数多く揃っていました。

いくらBf109E-3に実地試験での性能面で各性能差が多かれ少なかれ優れている点が多いスピットファイアmk.Iですが、スピットファイアの機数はハリケーンmk.Iよりも少なく、パイロットは飛行時間3ヶ月から6ヶ月の実戦経験のない新米揃いでした。(これはBf109E-3が劣っているという意味ではありません。当然スピットファイアmk.Iにも内部構造的に致命的なものや機体性能の多少の弱みももちろんありました。これに限らず何かを、試すのにリスクや計画の利点、欠点は世の常です(笑)機体の性能の詳細は後ほど書く予定です。)

これによって軍事施設を攻撃されている以上、戦力の節約をしようとしてリトルウィング作戦でゴリ押したのも頷けます。結果的に、これらのイギリス空軍の頭脳戦やビッグウィングによってドイツは航空戦力に深い打撃を与えられました。

9月15日、両軍ありったけの航空戦力を全て用いて、ロンドン上空でかつてない大規模な空中戦が行われました。ドイツ、イギリス空軍(多国籍)は両軍切羽詰まっていました。お互い敵も味方も入り乱れて、国境を超えて必死に制空権を奪取、確保し合いました。新米ベテランも関係なく、地獄の空の中に消えていくものも沢山いました。…そして翌日、スクランブル発進の準備が出来ているにもかかわらず、ドイツ空軍のアルマダは出てきません。その日以降空襲の規模も低下していきました。上層部は不審に感じていました。

その頃ドイツでは、航空戦力に甚大な被害が出てしまい、これ以上の戦闘は危険と判断し、アドルフ・ヒトラーがイギリス本土上陸後作戦の無期延期を決定しました。つまり、事実上のイギリスの勝利、現実的にはヒトラーの世界征服の野望の広がりを、ヨーロッパ最後の砦で抑えることに成功したのです。

その理由は、ソビエト社会主義共和国連邦に関心を示したからです。ソビエトを手に入れればイギリスはその圧倒的な物資の前に戦意を喪失できるだろうというのが目的でした。

しかし、このバトル・オブ・ブリテンにおけるイギリス空軍の行動が、この後の歴史を大きく変えることとなるのです…。

次回は独ソ戦について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(5)


こんにちは。spit14です。今回は、バトル・オブ・ブリテンについて書いていこうと思います。

1940年夏、フランスからイギリスへ渡る大規模な撤退、いわゆるダンケルク撤退作戦のための時間をフランス、イギリス空軍が稼ぎ、ついにフランスもアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツに屈服されました。イギリスはワシントンに救援要請をしましたが、中立的立場を崩さなかったため、結果は失敗に終わりました(経済的な支援は多少行いました)。

イギリスは孤独の戦いを強いられました。ネヴィル・チェエンバレンのお陰で軍備拡張の時間は稼ぎましたが、戦闘機やパイロットの航空戦力はとても十分とは言えないかったのが実状でした。(イギリス空軍の防空戦闘機は750機)ちなみにドイツ空軍は単座戦闘機と爆撃機だけでも2500機以上にのぼり、幼い頃からグライダー飛行や、スペイン内戦などの飛行、実戦経験があるパイロット揃いでした。後に活躍するポーランド人やカナダ人などの多国籍パイロット勢が入隊し、パイロットの数を数百名増やすことができました。但し、初期では前線で戦う前に英語を教え込み、連携を取らせる必要がありましたが、なかなか上手くいかなかったそうです。

しかし、当時世界初のレーダー開発に成功し、実用化もされていました。敵を倒すことは出来なくても、敵機の視界を先駆けて捉えることができました。それを利用して、敵に感づかれるまえに離陸、高高度で待機(速度エネルギーを維持した状態で位置エネルギーを確保)します。そして、奇襲攻撃をするといった戦術です。

ただし、現実的には最初こそ上手く行きましたが、それが厄介と判断した大ドイツ空軍はレーダーをユンカースJu87 シュトゥーカなどを使ってレーダーを破壊しました。レーダーの復旧作業中頼れたのは、海峡で地上哨戒をしている地上部隊の目視での索敵のみでした。当時、発信命令があって、3分で離陸しなければなりませんでした。迎撃命令が入っても、倍もかかってしまうことはザラにあり、飛行訓練中、終了直後に空襲に会うこともありました。

スピットファイアやハリケーンは初期の爆撃だけで、合計300機以上の損失となり、その多くは爆撃機によって、飛ばずして破壊されました。基地施設や、航空機は回復する前に次々と破壊され、敗北は目前まで迫っていました。

次回は、ロンドン空襲による戦略的影響とバトル・オブ・ブリテンの結末について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(4)


こんにちは。spit14です。今回はイギリスの天才設計士と彼の傑作戦闘機について書いていこうと思います。

イギリスは第二次世界大戦の勃発前、戦争全体においても基本的に古典的な航空機が多い国でした。1935年に時代の一歩先を行ったBf109に対して、イギリスで初めて採用された単葉引込脚戦闘機"ホーカー ハリケーン"も、複葉機の基本設計を取り入れたかなり保守的なデザインでした。速度はBf109に対して30km/h以上及ばす、横転率や、加速、高高度でも機動性で遅れを取りました。Bf109に捕捉された時に唯一できる反撃手段は、低中高度で旋回で振り切り、後ろに回り込むことだけでした。

しかし、このわずか4ヶ月後1936年3月5日に新たな戦闘機が初飛行をしました。それを見た空軍は、それまでの古典的なデザインや性能を覆す先進的なフライトをしました。その戦闘機に命を捧げた天才設計士がいます。彼の名はレジナルド・ジョセフ・ミッチェル設計士です。彼は、かつて、シュナイダーカップで登場無名だったスーパーマリン社を立ち上げ、初参加初勝利をおさめました。そして、イタリアの天才設計士、マリオ・カストルディと凌ぎを削り合い、世界最速記録の栄光はマリオ・カストルディが、シュナイダーカップの栄光はレジナルド・ジョセフ・ミッチェルが手に入れました。彼らは国を超えてお互い刺激しあえる良きライバルだったと私は思います。

そして、レジナルド・ミッチェル技師はシュナイダーカップでの経験を生かし、ドイツなどの仮想敵国との戦闘から本土を守る防空戦闘機(インターセプター)開発プログラムを実行に移しました。彼は次の大きな戦いも避けられないと感じたのでしょう。彼は高空を飛行している爆撃機や戦闘機と渡り合うには、エンジンパワーや空気抵抗の削減も大事になりますが、単に速度と上昇力を上げるだけではいけないと感じました。前線基地のような短距離の滑走路で離陸しなければならないことと、武装を強化(もともと7.7mm機銃4丁から量産型で8丁へ)して速度も維持しなければならなくなりました。そうなると必然的に主翼面積は大きく、抵抗を減らせる翼断面や翼型にしなければなりませんでした。彼は、最大翼厚を当時の主流だった15%から13%まで引き下げ、武装面積確保のために楕円翼を採用しました。これは、結果的に翼面荷重が低くなったことにより旋回半径が小さくなりました。また当時としては横転の反応も比較的よくできていたのです(低速〜450km/hまではドイツのメッサーシュミットBf109や全速度域では後に登場するフォッケウルフFw190、高速域ではアメリカのノースアメリカンP-51マスタングには及ばないが…)。新鋭戦闘機開発は順調に進んでいると思われていました。

しかし、ある時レジナルド・ミッチェル設計士は倒れ、病院に搬送されました。癌が発見されたのです。しかも、もともと体調不良気味だったことも承知の上で製作に励んでいたので、回復不可能な状態でした。でも彼にはもう時間がありませんでした。何故なら、もうすぐそこにアドルフヒトラー率いるナチスドイツの脅威が迫ってきているからです。本土を守りきれる戦闘機はもはや、彼にしかつくることができなかったのです。彼は残り少ない時間を自分の命を最新鋭防空戦闘機に捧げました。

彼は初飛行ののち、まるで生きる目的を全うしたかのように、静かにこの世を去りました。実は、この機体製作でもう一人命と引き換えにこの機体の心臓部の基礎を作った人物がフレデリック・ヘンリー・ロイスです。彼も1933年に癌でこの世を去りました。彼らの手によって生まれたその最高傑作の防空戦闘機の名称は"スピットファイア"。

次回は、バトル・オブ・ブリテンについて書いていこうと思います。一部、誤りがあったので訂正させて頂きます。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(3)


こんにちは。spit14です。今回はある人物の苦渋の決断とドイツの生み出した新しい戦術思想からできた新世代戦闘機について書いていこうと思います。

世界は、再び緊張状態に陥りました。原因は、ベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラーの登場によってファシズムがヨーロッパへ広まったことにあります。

特に当時のドイツは第一次大戦の敗戦によって、今後数百年にわたってイギリス、フランスに賠償金を支払わなければならず、軍縮も命じられたため外交的には完全に崩壊していました。そこで、アドルフ・ヒトラーはこれを踏み台(つまりこれを持ちネタにして、こうたなったのはイギリス、フランスのせいだという内容のプロパガンダをビデオやラジオなどのあらゆるメディアを用いりました。これによって、大衆から指示を短期間で大量に集め、ついにナチスドイツが誕生しました。

アドルフ・ヒトラーは、隣国オーストリアを併合し、チェコ=スロヴァキアのズデーテン地方を取り込もうとした時に、ミュンヘンでイギリス(ネヴィル=チェンバレン)、フランス(エドゥアール・ダラディエ)、イタリア(ベニート・ムッソリーニ)が首脳会談を始めました。ネヴィル・チェンバレンは当時、苦渋の選択に迫られていました。

遅かれ早かれアドルフ・ヒトラーの勢力を武力を持って介入せざるを得なくなる状況ですが、イギリスの航空軍備確保がまだ終わっていない状態でした。もしアドルフ・ヒトラーの要求を拒否すれば、確実に猛烈な反撃をうけ、自国の存亡の危機に立たされてしまう自体になると予想しました。下手に鎮圧せず、平和主義という面目で彼の要求を受け入れ、ズデーテン地方併合を黙認しました。

ネヴィル・チェンバレンの選択についてはヒトラーの侵略行為に対して指をくわえて見ていたという批判的な意見が強いです(後のウィンストン・チャーチルにも、あの第二次世界大戦は防げたのではないかという見方をしていました。)。

しかし、避けられない争いになるならば、今闇雲に鎮圧よりも現時点の最新鋭戦闘機を増やして、パイロットを育成させるべきという考えは、後のヒトラーの世界征服を阻止する重要な役割になったと思います。その意味では後のイギリス存亡の危機を救う為の礎になれたのではないかと思います。この後ドイツはポーランドベルギー、フランスを侵攻し、第二次世界大戦は遂に始まってしまったのです。ネヴィル・チェンバレンは自分の役割を終え、数ヶ月で胃癌でこの世を去りました。

1935年、ドイツでかつての大戦で一般的だったドッグファイトの欠点を見出しました。それは、急旋回し続けた後は速度が低下し、速度と高度を稼ぎにくいこと、ドッグファイトはパイロットに大きな肉体的精神的に疲労を及ぼすこと、旋回中距離があると機銃の弾丸が命中しにくいことをでした。

そこで、ドイツの航空設計士の天才の1人、ウィリー・メッサーシュミットはまず速度エネルギーと上昇力を稼ぐには必然的に、それは非力なエンジンではお話にならないとしました。機体そのものをコンパクトにして空気抵抗を減らしました。高速で高高度からダイブして敵に一撃を加えて高度エネルギーで稼いだ速度で敵をやり過ごし(相手の反撃の機会を少なくする)します。そしてその速度エネルギーを再び上昇に利用してのサークルを繰り返します。このいわゆる一撃離脱という戦法を前提とした新しい発想と、その概念でできたユニークな戦闘機が登場しました。それが"メッサーシュミット Bf(Me)109"シリーズです。この機体の詳しい情報は後ほど書いていこうと思います。

通常、後の傑作戦闘機と呼ばれるものの特徴として、戦火の拡大や敵国の最新鋭戦闘機に備えて、必要最低限の改良で(エンジンの交換、重要な基礎の部分の強度強化、武装交換のみなど)済むよう、基本設計そのものにゆとりを持たせていたことです。なぜなら、新しく航空機を作るにはお金が非常にかかってしまい、必ずしも現存する戦闘機を全ての面で上回るとは限らないからです。Bf109はこれらを見事に満たしていました。

次回は、イギリスの航空設計士の天才と、彼が生んだ傑作戦闘機の一つ呼ばれた防空戦闘機(インターセプター)について書いていこうと思います。

戦闘機の登場と航空産業の発展(2)


こんにちは。spit14です。今回は航空産業の飛躍的発展について書いていこうと思います。

戦後の世界では航空機の航続距離、滞空時間、スピード(最大瞬間速度やある一定距離を飛んだ時、あるいは一定回数飛んだ時の平均速度など)などの部門に分かれてトップを競う競技が盛んに行われました。その一つは、何と言ってもシュナイダーカップでしょう。

この競技自体は第一次世界大戦前から始まり、水上機を用いて超低空、いわゆるシーレベルの高度でスピードを競うものでした。そしてこの競技には、マッキ(後にMC.205 ヴェルトロを開発)、スーパーマリン(後にスピットファイアを開発)、カーチス(後にP-40を開発)などの、後に第二次世界大戦で泣く子も黙る有名な航空会社がなだれ込んできたのです。これは、各国の技術をお互いに世界に見せつける絶好のチャンスだったのでしょう。

レースではありませんが、マッキはMC.72と呼ばれる水上機に、二枚のプロペラをそれぞれ逆回転させ、プロペラトルクを打ち消す初の二重反転プロペラを使いました。そして、水上機としては空前の700km/hを超える世界記録を叩き出しました。これは、シュナイダーカップ最後の優勝を飾ったスーパーマリンのS.6Bでさえも最高速は約50km/h以上も上回っていました。さらに、この驚異的とも言える速度記録は今もやぶられていません。(ちなみに、日本では航研機が世界航空連盟から直々に世界記録を認められた唯一の航空機です。1937年に更新されたその記録は航続距離10,651.011km、10,000km飛んだ間の平均時速が186.192kmでした。)

次回は、第二次世界大戦の直前と勃発、航空機の新たな戦術思想について書いていきたいと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(1)


こんにちは。spit14です。今回は二宮忠八のその後の歩みとバルカン半島の緊張時までの、飛行機が遥かな昔から繰り返した人類の争いの歴史に飲み込まれるところまでの過程を書いていこうと思います。

彼は航空機開発のために軍部に頼み込みましたが、結果的には当時の軍部は彼の構想に関して軍事的価値を見出せないと判断したために、拒絶されました。

彼はならばと、陸軍を退役し、資金源の確保も含めて全て自分の手で作り上げようと心に誓いました。彼は結局、模型の試作機で悩まされていたプロペラの配置を実機でも改善できなかったこと、エンジンが離陸重量に対してパワーが足りなかったため、有人動力飛行は実現出来ませんでした。

しかし、後になって、彼の構想やデータが正しかったことをに気が付いた軍部は、二宮忠八に謝罪し彼の功績を称え受賞させました。彼の評価に対して過大評価とみなす傾向ももちろんありますが、当時の日本の航空機開発の開拓者であることは誇張ではないと思います。

1914年になるまでに、ヨーロッパを始め、アジア、中東、各海洋で緊張が高まってきました。対立している国に対しての植民地支配や各国に賛同できる国同士と同盟を結び合い、それぞれ2種類(同盟国と連合国)にジャンル分けされました。世界情勢は、一触即発の危機に直面していたのです。

そして、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニアヘルツェゴビナの併合によって、セルビア人の青年が報復としてフランツ・フェルディナント夫妻を暗殺しました。世界を巻き込む地獄の連鎖が、遂に始まってしまったのです。これが、第一次世界大戦となりました。この歴史の荒波に航空機も巻き込まれていくこととなります。

次回は戦闘機の登場と航空産業の発展(1)で紹介していこうと思います。

つづく

飛行という概念と飛行機の誕生の歴史 (5)


こんにちは。spit14です。今回は二宮忠八のその後の歩みとバルカン半島の緊張時までの、飛行機が遥かな昔から繰り返した人類の争いの歴史に飲み込まれるところまでの過程を書いていこうと思います。

彼は航空機開発のために軍部に頼み込みましたが、結果的には当時の軍部は彼の構想に関して軍事的価値を見出せないと判断したために、拒絶されました。

彼はならばと、陸軍を退役し、資金源の確保も含めて全て自分の手で作り上げようと心に誓いました。彼は結局、模型の試作機で悩まされていたプロペラの配置を実機でも改善できなかったこと、エンジンが離陸重量に対してパワーが足りなかったため、有人動力飛行は実現出来ませんでした。

しかし、後になって、彼の構想やデータが正しかったことをに気が付いた軍部は、二宮忠八に謝罪し彼の功績を称え受賞させました。彼の評価に対して過大評価とみなす傾向ももちろんありますが、当時の日本の航空機開発の開拓者であることは誇張ではないと思います。

1914年になるまでに、ヨーロッパを始め、アジア、中東、各海洋で緊張が高まってきました。対立している国に対しての植民地支配や各国に賛同できる国同士と同盟を結び合い、それぞれ2種類(同盟国と連合国)にジャンル分けされました。世界情勢は、一触即発の危機に直面していたのです。

そして、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニアヘルツェゴビナの併合によって、セルビア人の青年が報復としてフランツ・フェルディナント夫妻を暗殺しました。世界を巻き込む地獄の連鎖が、遂に始まってしまったのです。これが、第一次世界大戦となりました。この歴史の荒波に航空機も巻き込まれていくこととなります。

次回は戦闘機の登場と航空産業の発展(1)で紹介していこうと思います。

つづく