戦闘機の登場と航空産業の発展(4)


こんにちは。spit14です。今回はイギリスの天才設計士と彼の傑作戦闘機について書いていこうと思います。

イギリスは第二次世界大戦の勃発前、戦争全体においても基本的に古典的な航空機が多い国でした。1935年に時代の一歩先を行ったBf109に対して、イギリスで初めて採用された単葉引込脚戦闘機"ホーカー ハリケーン"も、複葉機の基本設計を取り入れたかなり保守的なデザインでした。速度はBf109に対して30km/h以上及ばす、横転率や、加速、高高度でも機動性で遅れを取りました。Bf109に捕捉された時に唯一できる反撃手段は、低中高度で旋回で振り切り、後ろに回り込むことだけでした。

しかし、このわずか4ヶ月後1936年3月5日に新たな戦闘機が初飛行をしました。それを見た空軍は、それまでの古典的なデザインや性能を覆す先進的なフライトをしました。その戦闘機に命を捧げた天才設計士がいます。彼の名はレジナルド・ジョセフ・ミッチェル設計士です。彼は、かつて、シュナイダーカップで登場無名だったスーパーマリン社を立ち上げ、初参加初勝利をおさめました。そして、イタリアの天才設計士、マリオ・カストルディと凌ぎを削り合い、世界最速記録の栄光はマリオ・カストルディが、シュナイダーカップの栄光はレジナルド・ジョセフ・ミッチェルが手に入れました。彼らは国を超えてお互い刺激しあえる良きライバルだったと私は思います。

そして、レジナルド・ミッチェル技師はシュナイダーカップでの経験を生かし、ドイツなどの仮想敵国との戦闘から本土を守る防空戦闘機(インターセプター)開発プログラムを実行に移しました。彼は次の大きな戦いも避けられないと感じたのでしょう。彼は高空を飛行している爆撃機や戦闘機と渡り合うには、エンジンパワーや空気抵抗の削減も大事になりますが、単に速度と上昇力を上げるだけではいけないと感じました。前線基地のような短距離の滑走路で離陸しなければならないことと、武装を強化(もともと7.7mm機銃4丁から量産型で8丁へ)して速度も維持しなければならなくなりました。そうなると必然的に主翼面積は大きく、抵抗を減らせる翼断面や翼型にしなければなりませんでした。彼は、最大翼厚を当時の主流だった15%から13%まで引き下げ、武装面積確保のために楕円翼を採用しました。これは、結果的に翼面荷重が低くなったことにより旋回半径が小さくなりました。また当時としては横転の反応も比較的よくできていたのです(低速〜450km/hまではドイツのメッサーシュミットBf109や全速度域では後に登場するフォッケウルフFw190、高速域ではアメリカのノースアメリカンP-51マスタングには及ばないが…)。新鋭戦闘機開発は順調に進んでいると思われていました。

しかし、ある時レジナルド・ミッチェル設計士は倒れ、病院に搬送されました。癌が発見されたのです。しかも、もともと体調不良気味だったことも承知の上で製作に励んでいたので、回復不可能な状態でした。でも彼にはもう時間がありませんでした。何故なら、もうすぐそこにアドルフヒトラー率いるナチスドイツの脅威が迫ってきているからです。本土を守りきれる戦闘機はもはや、彼にしかつくることができなかったのです。彼は残り少ない時間を自分の命を最新鋭防空戦闘機に捧げました。

彼は初飛行ののち、まるで生きる目的を全うしたかのように、静かにこの世を去りました。実は、この機体製作でもう一人命と引き換えにこの機体の心臓部の基礎を作った人物がフレデリック・ヘンリー・ロイスです。彼も1933年に癌でこの世を去りました。彼らの手によって生まれたその最高傑作の防空戦闘機の名称は"スピットファイア"。

次回は、バトル・オブ・ブリテンについて書いていこうと思います。一部、誤りがあったので訂正させて頂きます。

つづく