戦闘機の登場と航空産業の発展(5)


こんにちは。spit14です。今回は、バトル・オブ・ブリテンについて書いていこうと思います。

1940年夏、フランスからイギリスへ渡る大規模な撤退、いわゆるダンケルク撤退作戦のための時間をフランス、イギリス空軍が稼ぎ、ついにフランスもアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツに屈服されました。イギリスはワシントンに救援要請をしましたが、中立的立場を崩さなかったため、結果は失敗に終わりました(経済的な支援は多少行いました)。

イギリスは孤独の戦いを強いられました。ネヴィル・チェエンバレンのお陰で軍備拡張の時間は稼ぎましたが、戦闘機やパイロットの航空戦力はとても十分とは言えないかったのが実状でした。(イギリス空軍の防空戦闘機は750機)ちなみにドイツ空軍は単座戦闘機と爆撃機だけでも2500機以上にのぼり、幼い頃からグライダー飛行や、スペイン内戦などの飛行、実戦経験があるパイロット揃いでした。後に活躍するポーランド人やカナダ人などの多国籍パイロット勢が入隊し、パイロットの数を数百名増やすことができました。但し、初期では前線で戦う前に英語を教え込み、連携を取らせる必要がありましたが、なかなか上手くいかなかったそうです。

しかし、当時世界初のレーダー開発に成功し、実用化もされていました。敵を倒すことは出来なくても、敵機の視界を先駆けて捉えることができました。それを利用して、敵に感づかれるまえに離陸、高高度で待機(速度エネルギーを維持した状態で位置エネルギーを確保)します。そして、奇襲攻撃をするといった戦術です。

ただし、現実的には最初こそ上手く行きましたが、それが厄介と判断した大ドイツ空軍はレーダーをユンカースJu87 シュトゥーカなどを使ってレーダーを破壊しました。レーダーの復旧作業中頼れたのは、海峡で地上哨戒をしている地上部隊の目視での索敵のみでした。当時、発信命令があって、3分で離陸しなければなりませんでした。迎撃命令が入っても、倍もかかってしまうことはザラにあり、飛行訓練中、終了直後に空襲に会うこともありました。

スピットファイアやハリケーンは初期の爆撃だけで、合計300機以上の損失となり、その多くは爆撃機によって、飛ばずして破壊されました。基地施設や、航空機は回復する前に次々と破壊され、敗北は目前まで迫っていました。

次回は、ロンドン空襲による戦略的影響とバトル・オブ・ブリテンの結末について書いていこうと思います。

つづく