戦闘機の登場と航空産業の発展(13)"バトル・オブ・ブリテン真の終焉

戦闘機の登場と航空産業の発展(13)"バトル・オブ・ブリテン真の終焉"


こんにちは、spit14です。今回は永遠のライバルとの凌ぎの削り合いとドーヴァー海峡の空中戦の終止符について書いていこうと思います。

スピットファイアmk.IXはそれまでのmk.Vより優れ、Fw190AやBf109F〜Gと互角かそれ以上に渡り合えた点はスピードだけではありませんでした。それは、1,565馬力のマーリン61エンジンで1,432m/m(高度2,133m)、このときmk.Vより翼面荷重が25kg/㎡程増加し、全開出力高度(馬力荷重による旋回率)でmk.Vよりも性能は若干下がりましたが、それでもなおFw190AやBf109F〜G相手には横方向であれば圧倒的、縦方向であれば匹敵かそれ以上の機動性を持っていました。

しかも、高高度性能は2段2速過給器とマイナスGによる燃料供給の支障を既に改善しているので高高度ではmk.V以上の加速、旋回率を誇り(むしろ高高度の方が総合性能が著しくよかったのです。)、Fw190Aは高度6,000mで急激な性能低下を起こすことも、英国が捕獲したその機体の実地試験で実証済みでした。なので高高度でFw190Aを完全に圧倒できるというスピットファイア側に一つの優位を与えました。また急降下でもFw190AやBf109F〜Gはスピットファイアmk.IXに対して一筋縄ではいかなくなりました。

ただし、ズーム上昇や低高度での出力、横転率は今だにFw190Aが有利だったので、相互的な空戦機動では両者は互角でした。そこで、高高度でFw190Aを圧倒しているが、全開速度が出せる高度に余裕が生まれたことを利用して、低高度型(L.F)のスピットファイアを生み出すことにイギリス空軍は着目しました。

やがて、すでにL.F用の翼端を切ったデザインのmk.Vを応用し、全開速度の高度を1,000m落として、1705馬力(高度1,753m)、緊急時に2,000馬力(1,600m)(両方ともMSギア)を出すマーリン66エンジンを開発しました。これは、多少の高高度、低速旋回性能低下(翼面荷重が149kg/㎡から151kg/㎡への若干の増加)を逆手にとって、横転率、低、中高度での馬力荷重を小さく(それまでのマーリン61エンジンを搭載していたスピットファイアの馬力荷重が2.14kg/hpに対してマーリン66エンジン搭載型は1.68kg/hpを下回ります。これは後の緊急時に2,220馬力(高度3,352m)のグリフォン65エンジンを搭載したスピットファイアを除いて世界で最も優れています。)できました。

このお陰で低高度での最高速度だけでなく、加速、上昇率、中、高速域の旋回率が驚異的にまで向上しました。急降下でも加速力向上によってのFw190AやBf109F〜Gの追随を許しませんでした。Fw190AやBf109の海峡での優位性は日に日に失われ、出現の1年半後には海峡上空での制空権は完全にイギリス空軍の手中にありました。

これ以降、後にお話しする西部戦線におけるドイツ爆撃の際にイギリスでV1ロケットや戦闘爆撃機(ヤーボ)の強襲が何度か起こりましたが、スピットファイアmk.IX、より高性能なXIVや、ホーカー・テンペストmk.IIやVによって迎撃され、1944年後半、真にバトル・オブ・ブリテンは終焉を迎え、スピットファイアは(圧倒的性能を誇り、イギリス上空の軍事的抑止にも繋がったグリフォンエンジンも含む)最後までイギリスの救世主であり続けました。

次回は西部戦線での連合国軍の反撃について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(12)"西部戦線…ドーヴァー海峡での膠着状態2"


こんにちは、spit14です。今回は1942年に登場した史上最高のインターセプターについて書いていこうと思います。

前回の記事に書いてあった通り、大ドイツ空軍最強のBf109F、Fw190Aの登場によって、それらの登場時にスピットファイアMK.I、MK.II、MK.Vは実戦でことごとく敗北に喫しました。そして半年間イギリス最強の戦闘機スピットファイアを封じ込み、ドーヴァー海峡の制空権をドイツが握りました。

この期間中スピットファイアの本命であるグリフォンエンジンを登載した、グリフォンスピットファイアは試験飛行で極めて優秀な成績をおさめ、マーリンからそれへ変わる予定のはずでした。しかし、量産中、オイル漏れなどの故障の問題解決にイギリス空軍を悩ませていました。

その結果、すでに生産されていたマーリン60系エンジンを装備させました。これがスピットファイアを1942年から1944年初頭まで世界で最も優れたインターセプターにさせた要因となりました。このスピットファイアMk.IX BF274は巡航速度は高度6,096mで521km/h、6,400m以降から8,358mまでで速度も上がり、増槽をつけても最大速度は8,358mにて629<span>km/h。さらに増槽がない時の全備重量状態で海面高度にて6,096mにて614km/h、フルスロットルでの適性高度での最大速度は8,358mにて652km/hです。同じく適正高度での最大速度が6,096mで597km/hだったMk.Vのそれを、同高度で15km/h以上、適正高度比較ででなんと差が2250m、55km/h近くも凌駕してしまう信じられない結果が出たのです。低高度でもかつてのマーリンをスピットファイアを完全に凌駕し、スピットファイアMk.IXは最大2,000馬力級の強力なマーリンエンジンを積みました。</span>

次回はくわしくスピットファイアMk.IXの性能的特徴、Fw190AとBf109F、Gとの戦闘について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(11)"西部戦線…ドーバー海峡における膠着状態…"


こんにちは、spit14です。今回は西部戦線からの反撃の前に、1940年末から1942年初頭までのイギリスを震撼させた出来事について書いていこうと思います。(ブログの内容変更を誠に勝手ながらさせて頂きました。)

1940年9月15日以降、イギリス、ドイツの間で全軍を用いての極めて大規模な空中戦は終わりを遂げました。しかし、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる制空権争いは、真に終わったわけではありませんでした。その原因は東部戦線の時にもお話しした、Bf109の完成系のBf109Fと、Fw190A戦闘機の登場でした。

Bf109FはそれまでのBf109Eのような尾翼の支柱や、20mmモーターカノン砲のないプロペラ軸などの空力上、空気抵抗の素となるものを無駄を徹底的に取り除き、より洗練されたスタイルへと変貌を遂げました。メッサーシュミット博士にとってはこの機体こそが、本来の目指し、試行錯誤の繰り返されたBf109のスタイルだったのです。

Bf109Fは、Bf109のダイムラーベンツDB601Aの1100馬力に対してあまり大差がない1175馬力のエンジンを積んでいました。しかし、Bf109F-1はE型のその最大速度を50km/hを超える615km/h(最大速度を出せる最適な高度での記録)へと変貌していきました。さらに、ライバルのスピットファイアMk.IやIIに対して翼面荷重はBf109よりも小さいです。にもかかわらず縦方向の運動性、高高度での総合性能で圧倒的な差をつけることに成功したのです。(翼面荷重以外の旋回性能向上については後のブログで解説します。)

また、横転率は低中速度では相変わらずスピットファイアを凌ぎ、上昇面では全ての面で圧倒しました。そのほかにも、Bf109Fに搭載されているモーターカノンと13mm機銃の命中率は高く、集弾性はコックピットからエンジンまでの直線距離でそれぞれ配置されているため、極めて高かいのです。総合面ではスピットファイアmk.I、IIを圧倒、その後継機のMk.Vよりやや勝る結果となります。

Fw190Aは、ようやくBf109Fに対抗できるマーリン45エンジンを搭載させたMk.Vを登場させた矢先に登場しました。その戦闘機はドイツで唯一の空冷エンジン戦闘機で、今や自動車産業でも有名なBMW製の強力なエンジン、BMW801を搭載していました。出力は海面で1,539馬力で、最大速度は6,000m付近まで優れた初期加速を出したと言われています。速度も620kmを超え、低速度で120°を超える横転率、武装はMG151 20mm機関砲4門と、13mm機銃を2門装備し、これらの点において第二次大戦中のレシプロ戦闘機の世界記録を作りました。

スピットファイアはこれらに交戦し、たちまち圧倒的(特にFw190Aによって)されました。これはイギリス空軍にとって極めて深刻なの危機となりました。事実上のイギリス存亡の危機が危ぶまれていました。

その半年後、ドーヴァー海峡の制空権を奪還すべく、スピットファイアの完成形であるMk.IXを登場させます。

次回はドーヴァー海峡の制空権争いについて書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(10) "独ソ戦…冬将軍到来"


こんにちは。spit14です。今回は冬将軍到来について書いていこうと思います。

ドイツ陸、空軍の電撃戦により、ソヴィエトは窮地に立たされます。ドイツ軍はぬかるんだ地形や針葉樹林のジャングルをなんとか進軍していきました。補給が途絶えがちだということを知っていたソヴィエト軍は地形を利用したゲリラ戦も展開してドイツ軍を踏み止めていました。</div>

1942年11月19日、ドイツ軍がやっとクレムリンの塔の先まで見えた(モスクワまでおよそ30km未満)矢先に、事態は一変します。それまで不利だったソヴィエトの戦況がついに逆転しました。</div>

その原因は彼らが一番実力を発揮し、かつてフランスのナポレオン一世の進軍をも追い返した出来事もありました。それが冬です。冬になると、ドイツ軍の特に陸軍は武器(ワルサーP-38やマウザーなど)が凍結、故障(拳銃のスライドやライフルのボルトが引けなくなる、寒冷化で排莢不良による弾詰まりが頻繁に起こりました。

一方ロシアでは陸軍の用いている武器は、どのような環境下でも確実に作動させるために安全装置などの複雑な機構がほとんどされていませんでした。

さらに、ソヴィエト空軍は横転率、加速力、最高速度などで総合性能でドイツ空軍機に匹敵するラボチキンla-5やヤコヴレフYakー1Mなどをようやく実戦投入し始めました。ロシアにおける、第二次冬将軍の登場となりました。赤い国の反撃がついにはじまったのです。

次回は西部戦線における1940年末から1941年までのドーヴァー海峡における制空権争いについて書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(9) "独ソ戦…東部戦線での電撃戦と戦闘機"


こんにちは。spit14です。今日は東部戦線の始まりと、拡大、そこで登場する当時の戦闘機について書いていこうと思います。

東部戦線が始まるや否や、ドイツは陸、空双方でソヴィエトに対して圧倒的な勝利を次々獲得していきました。この調子でドイツ軍は侵攻速度をキープして、予定までにこの電撃戦を完了しようとしていました。

しかし、たしかにドイツは1941年当時ソ連の武器に比べて明らかに上でしたが、ソ連側は被害を物ともせず数の差で突撃し、踏みとどまっていました。また、ドイツはぬかるんだ地面や、整備されていない道無き道を進むことを強いられました。

この当時使われていたソヴィエトの戦闘機は主にI-15のような複葉機やI-16のような戦闘機で、枢軸国にとってはあまり脅威になりませんでした。またミコヤン Mig-1も、速度こそ互角だが、それ以外ではドイツ機と対等に渡り合えないという烙印を押されてしまいました。この他にも、よく言って特化、悪く言ってそれしかできない戦闘機ばかりだったのです。

一方、ドイツ機空軍は、当時最新鋭のBf109F、Fw190Aを装備していました。Bf109は支柱が外され、完全に機体を流体学的に洗練されました。プロペラ軸内砲を備えていて、命中精度は主翼からばら撒くよりも確実に命中弾をあたえるためでした。一方、Fw190Aはドイツ空軍唯一の空冷戦闘機で、横転率(低空、低速域で130°以上)、武装(MG151 20mmカノン砲×4,13mmマシンガン×2)は当時世界最強クラスと言われていました。また、Bf109よりも安定した操縦ができ、速度も多少上でした。現に、Fw190Aは最初の海峡での戦いでスピットファイアmk.Vを一方的に撃墜した例もありました。これらの大ドイツ空軍の戦闘機で初戦は完勝とも言うべき活躍をしていました。

次回は冬将軍について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(8) "独ソ戦…光と影、二人の独裁者の策略"


こんにちは、spit14です。今回は独ソ戦の背景の続きについて書いていこうと思います。

ドイツとソ連が対立し、まさに一触即発かと思われていました。しかしそんな世界情勢の予想を覆し、騒然とさせた出来事があります。それは独ソ不可侵条約です。これは、ある有名な風刺画で、スターリンヒトラーが結婚している様子を描いたものがあります。その時のドイツとソ連の状況を(皮肉の意味で)象徴するものでした。当時、両国は国を上げて双方を対立させていた訳ではありませんでした。なので、彼らはポーランドで兵士達はウォッカやソーセージを提供したり、友好を深めていたこともありました。

しかし、これはアドルフ・ヒトラースターリンの策略で、国際上友好的な関係を保っているように見せかけ、後で双方不意をつこうと警告なく攻めるつもりでいました。これは、両政党内で、ドイツはバトル・オブ・ブリテンでの泥沼化とイギリス侵攻の失敗、ソ連ではスターリンによる国内大粛清、日本とのノモンハン事件で戦力が著しく消耗していたことが背景でした。特に、ソ連はドイツに対し、航空技術が時代遅れのものばかりでした。特にパイロットの質でも全くドイツにかないませんでした。

両国裏をかきながら再軍備完了までの時を待ちました。そして、ドイツが先に再軍備と戦術方法確立が完了し、1941年6月22日、バルバロッサ作戦と呼ばれる奇襲作戦が開始されました。ソ連はドイツに騙され、ソヴィエト存亡の危機がおとずれたと市民にプロパガンダとしてソ連じゅうに広げました。しかし実際はスターリンも冬がおとずれればソ連側から攻めるつもりでいたようです。これは独ソ戦の開始を意味し、双方の軍の兵士達は昨日までの友好を上層部の命令により一蹴りし、彼らはその命令に忠実に従っていました。

次回はドイツのソ連に対する電撃戦と、当時用いられた戦闘機について書いていこうと思います。

つづく

戦闘機の登場と航空産業の発展(7) "独ソ戦…二人の独裁者の狭間で…"


こんにちは、spit14です。今回は独ソ戦やそれに登場する戦闘機の前に、当時の独ソの背景について話していこうと思います。

ナチスドイツこと国家社会主義ドイツ労働者党は当初から反共主義を公にしていました。ドイツがなぜ社会主義共産主義を毛嫌いしていたのかについての問題はたんじゅんでもあり、複雑でもあります。

社会主義はもともとドイツ(プロイセン)のカール・マルクスからの思想です。彼はユダヤの血統を受け継いでいました。なので、アーリアン至上主義、ユダヤ人迫害(アドルフ・ヒトラーの母親を救ってくれたユダヤ人医師などは除いていました。)を考えていたアドルフ・ヒトラーにとっては都合の悪い思想だったようです。

そして、そもそもナチスドイツの国家社会主義とはただの社会主義共産主義ではありません。しかもアドルフ・ヒトラーの目指していたものは単なる国粋主義でも資本主義国家でもありませんでした。彼を筆頭にドイツ人(特にアーリア人)のコミュニティーを作って、ユダヤ人を初めとする政党反対派の民族を弾圧、もしくは利用して使い捨てるという恐怖政治を用いた民族ナショナリズム帝国国家でした。ドイツの中の小さなコミュニティーから、世界へ向けて進軍、その力を見せつけ、世界そのものを我が物にするという計画でした。

また、宗教面ではドイツはキリスト教のような絶対神を古くから信仰の対象(西方正教会)としていました。その為ナチスドイツもそれを取り入れ、反対する宗教団体を鎮圧していました。

しかしレーニン、ヨシフ・スターリンと続いてきていたソヴィエト社会主義共和国連邦ことソ連は、キリストなどの絶対神をむしろ排除する動きがありました。なぜなら、ロシアは基本的に東スラヴ人の文化なので、信仰の対象はギリシア正教会(東方正教会)だったのです。これは古くからのヨーロッパ東西対立の元凶でした。

これらのことが相まって、アドルフ・ヒトラーヨシフ・スターリンは政治的な面でお互い対立をしていました。お互いホロコーストや、資本主義者やその他の反対勢力の粛清していたので政策的にはどちらも恐怖政治であったことに違いはありませんが…。

世界の大恐慌の後、彼らがお互い強いカリスマ性や影響力を用いて勢力を伸ばし、ついにドイツとソ連の間にも戦火を交えると当時のこれを見ていた世界情勢は考えていました。しかし、自体は思わぬ方向に転換していったのです。</div>

次回はドイツ兵とソ連兵との間の関係と、独ソ戦の勃発について書いていこうと思います。

つづく